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トピックス by村本邦子

2013.03.23
2013年3月 東日本大震災から二年が経ち・・・

 東日本大震災から二年が経ち、続々と震災関連映画が公開されている。先月は「傍〜かたわら3.11からの旅」について書いたが、今月は、MBSが作成した「生き抜く〜南三陸町 人々の一年」を取り上げたい。これを観る一週間前、私はたまたま南三陸にいた。露天風呂から眼下に広がる瑠璃色に輝く海に感動し、夜、星空の下で白く輝いて浮かび上がる無数のウミネコが浮遊している光景にみとれた。わかめの養殖に集まってくるのだという。

 翌朝、ホテルの語り部ツアーに参加し、二年後の街を見た。そのままに残った建物、マスコミで有名になった鉄柱だけが残された防災センター、壊された建物とその瓦礫、人手のない新しい水産工場、プレハブのコンビニ、トラックの給電所、新築された家、切り倒された杉林、塩分で死んでしまった田んぼ・・・。語り部のおじさんからは、町の人口がどんどん減っていく寂しさ、助からなかった命への無念さ、生き延びた命への誇り、これまで応援してくれた人々への感謝、それでもなかなか先が見えない焦りと不安、まだまだ助けが必要だからと南三陸の体験を伝えながらも、それを生業にすることへの罪の意識や辛さなど、複雑な気持ちがひしひしと伝わってきた。観洋というこのホテルは、町が生き延びるために、こうやってお客を呼び込み、南三陸のことを訴えていこうと決意したのだ。

 ここは、津波で1・2階が浸水、露天風呂は壊滅状態、水道も止まり、長期休業を余儀なくされたが、残った部屋を避難所として提供し、数か月、宿泊客、従業員、地域の人々、復旧作業員が水と食べ物を分かち合い、肩を寄せ合うように暮らしていたようだ。まだ水道も使えなかった7月、常連客に呼びかけて、一部営業再開に踏み切ったが、水は給水車から支給される1日80トン、食器を洗う水もないので、紙コップや紙皿で料理を出していたという。後で知ったことだが、逞しい女将が切り盛りしていた。

 ドキュメンタリー「生き抜く」は、この街の一年目を描いていた。ああ、この一年を経て、あの二年目があったのだと、空白の隙間が少し埋められる感じがした。登場人物の一人である漁師は、防災センターで娘を失くした。避難所から仮設に移り、毎日、テレビばかり見て過ごす。テレビを見ないでいると、目の前にあの時の光景が浮かぶのだそうだ。それが、ある時から、海に出るようになる。「きっかけは?」との問いに、「もしかしたら、娘が網に引っ掛かってきてくれるかも・・と」と答える。娘さんはまだ行方不明のままだ。ああ、そうなんだと思う。船を失った漁師たちは、共同で漁を再開するという組合の提案に何度も何度も話し合い、ようやく漁が再開される。養殖のわかめや魚の向こうには、こんな1年があったのだとあらためて思う。
MBSの井上里士さんの話では、震災直後、3つの取材班を別ルートから東北へ派遣して、1つは途中で道を閉ざされ、残る2つの取材班が偶然、同じ南三陸町に入ったことから、ここで長期的な記録映像を撮ることになったという。そう言われてみると、南三陸で、その撮影隊に違いないと思われる人たちを見たことを思い出した。このドキュメンタリーの上映会は、あのホテルでやったそうだ。たまたま、「遺体〜明日への十日間」も観たのだが、二年を経て、ようやく、私たちは(それも距離のある私たちだ)、あの頃のことを振り返って捉えることができるようになりつつあるのだと思う。自分の生きる社会のできごととして、しっかりと振り返り、捉えなおし、建て直しに力を尽くさなければならない。

 3月11日、「いのちのつどい」の追悼式にたくさんの人たちが集まったことに励まされながら、しかし、集まっているのは何らかの形で被災地に関わっている人々であるということにも気づいている。これをどのように関わっていない人々にもつないでいけるのだろう。3.11の捉えなおしには、まだまだ長い時間がかかるにちがいない。

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