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トピックス by村本邦子

2015.05.14
「聴く」ことから始まる抵抗

 組織的な変更を経て1年跳んでしまったが、『女性ライフサイクル研究24号:抵抗とレジリエンス~ぶれることなくしなやかに』が刊行された。そこに「心理療法家は抵抗者たりえるか?」を書いたのだが、もしも答えがYESだとすれば、それは、「聴く」ことを通じてでしかあり得ないというのが今のところの私の結論である。そんな時に、勧められて鷲田清一さんの『「聴く」ことの力~臨床哲学試論』を読み、ますますその思いを強くした。 

 鷲田さんによれば、語りは全身的な行為であり、「テクスト」(語られた内容)だけでなく、たとえば、ことばが胸に突き刺さる、ことばに棘がある、ことばが冷たい、荒い、重い・・・等々によって示させる「テクスチュア」(言葉のきめ)がある。誰かの声にはその人に特有なきめがあり、繰り返しそれに触れているうちに、その人の存在はほとんど<声>に還元されていると言っていいほどになる。「語る言葉」に意味の伝達と自己表出という面があるとすれば、「聞かれる言葉」にも表出がある。

  すなわち、聴く側は、他者を受け入れ(歓待)、自らをヴァルネラブル(傷つきやすい)な位置に据えなければならない。他者の経験をまるで我がことのようのように受容し理解すること(=他者の同化)と同時に、自分が自己自身にとってよそよそしいものに転化すること(=自己の他化)が起きる。「われわれが絶対的個体としての密度を手に入れることを妨げるある内的な脆弱さ」(メルロ=ポンティ)は、しばしば自己防衛のために過剰なまでに他者を排除する傾向を煽るのであるが、この脆弱さこそが逆に他者を<客>として呼び求める。<臨床>とは、ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな関係のなかで自分もまた変えられるような経験の場面と規定することができる。<歓待>とは、世界を自分の方から視る、自分の方へ集極させる、そういう感受性への抵抗としてあるのだという。

  アメリカ人が客を迎え入れる時、自分のベッドを客に差し出し、自分はソファで寝るよう子どもに教えるのは、<歓待>のレッスンなのだろう。カウンセリングにおいて、全身全霊をアンテナに届いてくる<声>に自分を晒し、わたしの中心にある玉座を差し出し相手を迎え入れるというイメージを持つことがしばしばあったが、このことを言っているのだと思う。いつもうまくやれるかと言えば、必ずしもそうでもなく、うまくやれているという瞬間はいともたやすく逃げていく。それは膨大なエネルギーを要する努力目標のようなものでもあるが、心理療法における「聴く」ことの本質を表していると思う。もちろん、「聴く」ことは心理療法においてだけあるわけではないし、心理療法を構成するものは「聴く」ことだけではない。それに、心理療法家が常に「聴く」ことができるかと問われれば、必ずしもそうではないだろう。理論や技法は、それを妨げる。それでも、「聴く」ことなしに心理療法は成立しない。

  実のところ、カウンセリングを通じて出会ってきた人々は、わたしとの距離において、自分を中心においた同心円上のどこに位置づけられるのか、長い間、疑問に思ってきた。職業として捉えるならば、中心部に近いプライベートな関係性の外側、すなわち周辺部分に位置づけられるはずなのだが、実際に起こっていることは、時によってはプライベートな関係性よりももっと内側、わたし自身の奥深いところでわたしに影響を与え続けてきたからだ。

 年報にも紹介したが、小田博志さんは、具体的な出会いと対話を通してステレオタイプな他者表象を解体し、具体的な顔と名前がある存在として自分と異なる他者を迎え入れることを平和の実践としている。<歓待>が世界を自分に集極させる感受性への抵抗としてあるのだとすれば、まさしくこれは全体主義への抵抗と言えるだろう。問題は、これをどのように拡げていけるかだ。

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