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FLCスタッフエッセイ

2015.09.03 いのち
生と死と、自由と愛と~『レ・ミゼラブル』を観て思い巡らしたこと

                                                  西 順子

この夏、夏季休暇中の楽しみとして、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観にいきました。観劇してから三週間がたちましたが、毎日、家で過ごす時間はCDの音楽に聴きいっています。

『レ・ミゼラブル』は「悲惨な人々」「みじめな人々」を意味しますが、CDの歌声と音楽によって、ミュージカルの登場人物らの情熱的な生き様が思い出され、魂を鼓舞されます。
生の舞台や歌、そしてアンサンブルは、生きるエネルギーに満ち、魂を揺さぶられるようでした。
ここでは、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、思い巡らしたこと、考えたことを書いてみたいと思います。

□『レ・ミゼラブル』とは

原作『レ・ミゼラブル』(1862年)は、ヴィクトリア・ユゴーが自身の体験を基に、19世紀初頭のフランスの動乱期を舞台に当時の社会情勢や民衆の生活を克明に描いたフランス文学の大河小説です。1切れのパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになった主人公ジャン・バルジャン。ミリエル司教の慈愛によって改心し、善良に生きることを全うしようとする人生の物語です。

私は原作を読んでいませんが、2012年に映画を観て、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のことを知り、今回二回目の観劇となりました。
ミュージカル『レ・ミゼラブル』は、1985年ロンドンでの初演から現在まで世界30カ国以上で公演、ブロードウェイでも16年間続く大ロングランヒットとなっています。ミュージカルとしての歴史も長いことには驚きます。

ミュージカルには、原作のもつ「無知と貧困」「愛と信念」「革命と正義」「誇りと尊厳」というエッセンスを余すことなく注ぎこまれたと言われています。時代を超えて人気があるのは、この物語の根底にある普遍的なテーマが、観る者の魂に訴えかけてくるからでしょう。

□ 自由と使命、愛

私自身が魂をゆさぶられたのは、「この物語は決して過去ではない」ということでした。
ユゴ―自身「地上に無知と悲惨さがある間は、本書のごとき書物も、おそらく無益ではないだろう」(岩波文庫版)と言いますが、私はこの物語から「自由を求める闘い」を感じました。そして「自由を求める闘い」は現代において今もなお続いていることを思いました。

それは社会のなかで、家族のなかで、そして人々の内側で、支配し抑圧する者との闘いです。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、自由で平等な社会を目指して革命を起こそうとする若者たち(男)、生きるために売春窟で働く女たちも、自由を求めて生きることと闘っているのだと、その闘いは命の叫びであると感じられました。

一方で、自由があるだけでは人は幸せになれないのか・・という問いかけも起こりました。
ジャン・バルジャンに愛娘コゼットの未来を託したフォンテーヌと、託された使命のためコゼットを愛し守り抜くジャン・バルジャン。叶わぬ恋とわかりながらも愛する人のために力を貸したエポニーヌ、皆が人を愛することを全うするなかで、安らかに死の床についたのが印象的でした。
正義のため、自由を求めて闘った若者たちも、闘いに破れて命を落としました。

皆、愛することが使命であったともいえるでしょう。愛することが生きること、と愛が生きる意味を与えていたのだろうと思いました。もちろん、キリスト教精神がバックボーンにあることは大きいと思いますが、東西文化の違いを超えて、愛することの大切さを教えてくれています。自由は「個としての尊厳」ならば、愛は「他者とのつながり、絆」です。人が幸福に生きるためには、自由と愛と、その両方が必要なのだと考えさせられました。

もちろん、生きることは愛することと、きれいごとではないことも描かれています。民衆は、自由を求めて闘う若者たちを見捨てました。ティナディエル夫妻のように生きるために盗みを働き、お金を得ることに執着する者もいます。生き延びるためには、きれいごとでは生きられないのか・・と、人間の限界や悲しみを感じました。貧困にあえぐ悲惨な社会には善と悪、被害者と加害者が入り混じり、光と闇があるのです。どちらにせよ、民衆たちは生きること、生き延びることに必死であると言えるでしょう。


□未来を託すもの、託されるもの

ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、生きること、愛すること、使命を全うして生きることに、生命エネルギーを感じると同時に、死ということと、死にゆく人々のことも考えさせられました。

ミュージカルの最後の場面は、ジャン・バルジャンが愛するコゼットと命を救ったマリウスに看取られて、幸せのなかで亡くなります。ジャンバルジャンの命を引き継いだのは、生き残ったコゼットとマリウスの二人。最後の最後の舞台は、この二人を囲むようにして亡くなった民衆や若者ら全員が亡霊のように登場し、大合唱で幕を閉じます。
ジャン・バルジャンは、自分が愛し育て、命を救った若者に未来を託すことで、安らかに永遠の眠りについたといえるでしょう。

涙なくしては観られない場面ですが、生き残った二人の命の背後には、たくさんの亡くなった命があることに思いを馳せました。

ミュージカルを観劇したのがちょうど終戦記念日の前々日。この夏でわが国も戦後70年を迎えましたが、今、生きているということは、たくさんの命の犠牲の上にあることなのだということを思い、その命を大切にしていかなければならないと思いました。

私自身のことですが、この一年親の介護の問題が現実化してきました。気がつけばいつの間にか親はすっかり年を取り、生命に限りがあるということを最近実感させられるようになりました。

前世代が私たち次世代に、安らかに幸せな思いで命のバトンを手渡してくれるだろうか、未来への希望を託してくれるだろうか、そして私はバトンをしっかり受け取れるだろうか・・と考えると不安になります。残された時間はもう少ないと思うと焦る気持ちにもなります。できれば幸せに最期のときを迎えさせてあげたいと願います。

しかし不安になっても私にできることは何もないに等しいことから、私にできることは自分が今生きていることを大切にすること、自分に与えられた役割や使命を全うすることと思い、心を鎮めるようにしています。


□生きるということ


日々の臨床のなかでは、生きることに絶望している、生きる意味が感じられない、自分には生きている価値がない・・という声なき声に耳を傾けています。


私には何も言うことはできませんが、ただその声に寄り添い、聴き取り、自由と尊厳を求めて生き抜いてきた方々の証人であり続けたいと思います。
そして、生きることは辛くとも、闇から光を見い出す道もあると信じ、そして生きている限り、身体がある限り、生きる意味があり、生きる価値があると、ただただ命を信頼していければと思います。


・・・ミクロからマクロまで視点があちこちにいきながら、つらつらと書きましたが、生と死と、自由と愛について、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、考えさせられ、思い巡らしました。


19世紀前半のフランス社会の激動期の物語、150年前に書かれた物語は今にも通じるところがあるのではないかと思います。時代を経ても、社会と人との関係、人と人との関係、自由と愛を求めることは普遍なのだと思います。
そして「無知と貧困」を繰り返さないよう、歴史から学ぶ必要があります。ぜひ一度、原作を読んでみたいと思います。

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