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トピックス by村本邦子

2007.11.28
南京を想い起こす

11月20日から1週間、南京に行ってきた。国際会議「南京を想い起こす~南京の悲劇70周年記念」に参加するためだ。このタイトルは日本語バー ジョンだが、中国語では「南京記憶~南京大屠殺70周年学術会議」、英語では"Bearing witness to the past, living together in the future: Remembering Nanjing(過去の証人となり、ともに未来に生きる~南京を忘れない)"である。垂れ幕の「大屠殺」の文字を見るたびに、胸が締め付けられる。英語の タイトルのとおり、南京であったことを想い起こし(私たち戦後世代にとっては学び直すことを意味する)、その証人となり、中国側と日本側の対話を試み、と もに生きる未来を模索しようという初めての試みだ。

 私自身は過去にも勉強してきたし、出発前の2週間は、あらためて勉強し直したので、生存者の方々の話を聞き、記念博物館で写真を見ても、事実とし てはほとんどが知っていたことだった。たったひとつ、初めて聞いたことがある。それは、向こう岸に渡るために、日本兵は、何千何百という中国人の遺体を川 に敷き詰め、橋として利用したということ。3月になり、少し暖かくなり始めた頃には、一帯にひどい臭いが立ち込めたと言う。このイメージには「予防接種」 がなかったので、さすがの私もやられてしまった。実際のところ、日本人側の参加者のほとんどが、多かれ少なかれ、頭痛、発熱、吐き気、嘔吐、身体の痛みな どの身体症状を呈していた。残虐行為を知ることだけでも、十分にトラウマになる。予防接種と免疫がなければ、これはきついだろう。

 日本の家庭の中で密かに行われてきた女性や子どもへの暴力被害、残忍な性犯罪に長く関わるなかで、私のなかで、その根っこは南京にあるのではない かという思いが強くなっていった。薬害エイズの問題が明らかになったとき、ミドリ十字と731部隊との連関に虫唾が走った。日本軍の性奴隷制度(従軍慰安 婦)のルーツを調べていても、上海から南京への道に行き着く。南京へ行かなければならなんじゃないかという気持ちはずいぶん前からあり、時々、小さなグ ループがそのようなツアーを行っていることを知って、参加したいと思いながら、なかなか時が熟さなかった。今回、不思議な力に導かれるように、ようやく時 が整い、このプロセスに自分のすべてを委ねる決意をした。

 今回、私自身の一番の目的は、頭でしかわからないことを胸に落とすこと、つまり、自分のなかの感覚麻痺を少しでも解くこと、そうすると、その後、 いったい何が起こるのかを確かめることにあったが、その目的は十分すぎるほど達成した。上海から南京に向かう列車の窓から、広大な大地のあちこちに、蟻の ように群がる日本兵を見、残虐行為に焼き尽くされた中国人の遺体の山を見た。生存者の証言のあと、「その時の日本軍は、すごくすごく悪かった」「悪い悪い 日本軍」という言葉が耳について離れず、耳を覆いたくなった。でも、私たちは聞かなければならない。

 記念館の残忍な写真(バラバラにされた身体のパーツ、刃物を突き刺され、切り刻まれた女性性器、裸の死体の山)のなかに映っている晴れやかな笑顔 の日本兵たち。これが、私たちの父であり、祖父であり、曽祖父である。彼らが、焼け野原となった日本に帰ってきて、戦後の日本を建て直し、そこに私たちは 生まれ、育ったのだ。私の頭のなかで、パチンと音を立てて、最後のピースがはまった。自分が紛れもなく日本人であることを受け入れた瞬間だった。加害者側 の恥と怒りと悲しみを、ようやく自分の胸の中に入れる通路が開いた。翌日、追悼のために「燕子磯」という虐殺記念場を訪れた。揚子江のほとりの、信じられ ないほど美しい場所だった。一緒にいる日本人たちと、泣いて泣いて謝った。日本人としてのつながりを感じた。心のなかの氷が溶けていくようだった。感覚麻 痺の時代が終わり、小さな小さな緑の芽生えの気配に気づいた。私には、本当にわかった。やわらかい心で命を愛せない日本人たち、感覚麻痺の苦しみから、自 らを切り、大量の薬を飲まなければ生きていけない若い人たちを癒すことができるのは、やっぱりこれなのだと身をもって知った。

 中国の人たちは、暖かくやさしかった。南京大虐殺を否定したり過小評価したりする今の日本の方向性については過敏になっているようだったが、それ に抵抗しようとしている私たちを敬意でも接してくれ、心を開いていろんなことを話してくれた。歴史を学ぶ若い大学院生の男性は、「今日の日まで、僕は日本 人を憎んできた。でも、気持ちが変わった。日本の若い人たちと話をしたい。交流したい。手紙を書いたら、若い学生たちに渡してくれるだろうか。文通をした い。事実を認めてくれて、話をしたら、友達になれる」と言った。

 辛く重い旅だったけれど、クリアで気持ちの良い帰り道を帰れたのは幸いだった。なんて滋養に満ちた旅だったことだろう。今回はささやかな一歩だっ たが、たしかな前進だった。これから、この方向を歩んでいくために力を尽くせたらと考え始めている。若い人たちを連れて、定期的に、南京を訪れ、向こうの 人たちと交流するというプロジェクトを思案中だ。かなりの準備がいるだろう。知的にも心理学的にも。そのためのトレーニング・プログラムやフォローアップ のプログラムも必要だろう。中国語も勉強しなくちゃ。日本の社会が幸福に向かえるように残る半生を捧げたい気持ちだ。

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